祖師

隠元隆琦禅師

隠元隆琦禅師頂相
隠元禅師画像:喜多元規筆

徽号

大光普照国師 後水尾法皇 特賜

諡号

生誕地

中国福建省福州府福清県

名は隆琦。姓は林。1592年11月4日生まれ。隠元禅師が6歳のとき、父が湖北・湖南方面に赴いたまま消息を断ってしまう。そして、21歳のときに父を探して浙江方面に旅をしたが、出会うことはできなかった。そこで、観音の冥助にすがるよりほかないと思い、普陀山に赴き、潮音洞に入って茶頭を勤めた。それが出家の契機となった。28歳のとき、母を亡くし、黄檗山の鑑源の勧めによって剃髪した。その後修行に努め、密雲・費隠の鉗鎚(けんつい)を受けた。1633年、費隠の法を嗣ぐ。1637年、本師の後を承けて、黄檗山萬福寺(古黄檗:中国)に晋住した。

1654年、長崎興福寺の住持、逸然及び檀越の招請に応じて来日。その行に従った者は、僧俗30名にものぼったという。長崎にて教化に努めたが、1655年摂津の普門寺へと移る。隠元は中国に残してきた弟子たちには「3年後には帰国する」という約束をしていた。来日3年目になると、中国の弟子や支援者たちから隠元の帰国を要請する手紙が多数届き、隠元本人も帰国を希望したが、元妙心寺住持の龍渓性潜をはじめとする日本側の信奉者たちは、隠元が日本に留まること強く望み、尽力した。1658年時の将軍、家綱に謁見し、翌年、山城国宇治に土地が与えられ黄檗山萬福寺を開創することとなる。

木庵性瑫禅師

木庵性瑫禅師頂相
木庵性瑫:喜多元規筆

諡号

慧明国師 明治天皇 勅諡

生誕地

中国福建省泉州府晋江県

法系

萬寿派祖

名は性瑫。姓は呉。開元寺の印明に就いて剃髪。その後、密雲・費隠にも参じたが、隠元に就いて参究、1650年嗣法。隠元禅師の招きに応じて1655年来日。黄檗山萬福寺の開創を援け、1664年隠元禅師の退休の後を承けて第二代を経席した。1680年塔頭紫雲院に退休し、1684年1月20日示寂。即非如一とともに「長崎の二甘露門」と称され、隠元の「徳」、木庵の「道」、即非の「禅」と称される。現在の黄檗山萬福寺の伽藍は木庵の時代に整備されたといっても過言ではない。書や墨画に優れ、特に書は隠元、即非とともに「隠木即」あるいは「黄檗三筆」と讃えられた。

潮音道海(寳林寺中興開山)

潮音道海禅師頂相
潮音道海:喜多元規筆

南牧樵夫

生誕地

佐賀県小城郡小城町西川

法系

緑樹派祖

姓は、楠田。13歳で出家し、医王寺瑞巌に参じた。かねてより、中峰明本の禅風を慕い、一糸文守の道誉を聞いて江州瑞石山永源寺に登ったが、一糸すでに寂し、後席如雪文巖に参じた。27歳のとき、隠元禅師の渡来に長崎興福寺に赴いたが掛頭叶わず、崇福寺の道者超元に参じた。1665年江戸に出た潮音禅師は、大慈庵を興して、黄檗の教えを広める。1666年には須田覺心や吉田大機らの招きで眞福山寳林寺へ晋山し、江戸大慈庵を往復する。1669年、寳林寺での説法が評判となり、徳川綱吉が開基となり、潮音禅師のために上州館林に萬徳山廣済寺を開山し、木庵性瑫を勧請開山として、晋山した。1683年、館林藩主徳川徳松が夭折(ようせつ)して廣済寺の領地は収公となり、潮音禅師は廣済寺を退いて甘楽郡南牧村の黒瀧山不動寺に晋山した。廣済寺は廃寺となり、江戸大慈庵に引き継がれ、後に深川に万徳山廣済寺として再興された。1695年、隠元禅師二十三回忌に黄檗山萬福寺へ赴き、供養を尽くされての帰途、美濃の萬亀山臨川寺にて病を再発し、遷化される。禅僧でありながら神道や真言宗の教義にも通じていた。開山の寺24ヵ寺、弟子64人。