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【お坊さんの寺めぐり】福聚山大慈寺

由緒

大慈寺は、江戸時代前期(1673)徳信和尚によって開かれた。嗣子のいない伯父の養子として育てられた徳信は、両親の反対を押し切って仏門に入門。黄檗山にのぼって修行を積み、盛岡に下向したのちも、出世を願うことなく、ひたすら法をひろめる生活をしていた。これを聞いた重信公からの糧料給与を固辞していたが、ついに、与えられた地に一寺を建立し、福聚山大慈寺と称した。

歴代

  • 開山 徳心道空
  • 二代 逸堂通㯋
  • 三代 嫩桂衍昌
  • 四代 萬壑衍水
  • 五代 祥天如麟
  • 六代 透関如得
  • 七代 説吼口畏
  • 八代 恵珊真暈
  • 九代 恵観通光
  • 十代 宗光元源 
  • 十一代 泰順浄橋
  • 十二代 峻岳寂春
  • 十三代 隆光寂道
  • 一四代 悟岳寂秀
  • 一五代
  • 一六代 義勝寂明
  • 一七代 泰雄寂心
  • 一八代 弘倫明道
  • 一九代 祥博本照
  • 二〇代 信善本源

平民宰相 原敬 墓所

  • 原 敬(はら たかし)
  • 生:安政3年2月9日(1856年3月15日)
  • 没:大正10年(1921年)11月4日)
  • 位階勲等:正二位大勲位
  • 幼名:健次郎
  • 号:一山、逸山
  • 戒名:大慈寺殿逸山仁敬大居士
  • 大慈寺は内閣総理大臣第一九代原敬の墓所であり、大慈寺の再建に尽力した人物である。

外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第11・16代)、衆議院議員、内務大臣(第25・27・29代)、立憲政友会総裁(第3代)、内閣総理大臣(第19代)、司法大臣(第22代)などを歴任。

陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から政友倶楽部に参加して政界に進出。大正7年(1918年)に総理大臣に就任。戦前期日本の貴族制度であった華族の爵位の拝受を固辞し続けたため、「平民宰相(へいみんさいしょう)」と渾名された。

大慈寺の再建

大慈寺は、明治一七年の盛岡の大火によって、類焼し、全伽藍が消失してしまっていた。原敬の母堂リツが大正二年、行年九三歳で逝去し、大慈寺にて葬儀を執り行った。大慈寺は焼失後の仮本堂の状態である中、原敬は立憲政友会の大立者として知られ、参列者は多数をきわめ、花輪供物も置所なく、焼香の人々で溢れかえり、室外に立たせたままの状態となってしまったという。その姿をみた原敬は、痛恨されたことで、大慈寺本堂再建に意を決した端緒となったという。その後、本堂、楼門、庫裡、原敬個人がほとんどを負担し、残りを寺と檀徒によってまかない再建している。

原敬暗殺事件

大塚駅の転轍手であった中岡艮一は、以前から原首相に対して批判的な意識を持っていた。中岡の供述によれば、原が政商や財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどによるとされている。その他一連の疑獄事件が起きたことや、反政府的な意見の持ち主であった上司・橋本栄五郎の影響を受けたことなどもあって、中岡は首相暗殺を考えるようになった。

1921年11月4日、翌日に予定されていた京都の立憲政友会近畿大会へ出席のために、原は東京駅へ午後7時10分頃に到着した。その後、駅長室に立ち寄り、多数の見送り人に囲まれながら歩いて乗車口の改札口へと向かっていた。午後7時25分頃、周囲をとり囲んでいた右側群衆の中から突進してきた青年(後に中岡と判明)が短刀を原の右胸に突き刺し、原はその場で倒れた。凶行に及んだ青年はその場で逮捕され、原に随行していた望月圭介・元田肇・中橋徳五郎・小川平吉らと東京駅長の高橋らが、原を駅長室に運び込み応急処置を施した。凶変の知らせを受けた夫人が東京駅へ午後7時40分頃に駆けつけ、8時10分頃に自動車で芝公園の自宅へ運んで診察と治療を施したが、突き刺された傷は右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。

逮捕された中岡は、死刑の求刑に対して、東京地裁で無期懲役の判決を受けた。その後の東京控訴院・大審院でも判決は維持され確定した。なおこの裁判は異例の速さで進められ、また調書などもほとんど残されていないなど謎の多い裁判であり、その後の中岡の特別な処遇がなされ、3度もの減刑で1934年には早くも釈放された。

さらに戦時中には、比較的安全な軍司令部付の兵となっていた(中岡艮一の項参照)こともあいまって、本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者もいる[1]。中岡は第二次世界大戦後の1980年に、77歳の生涯を閉じている。

引用:wikipedia

遺言

「葬儀は盛岡にて営むべし、東京においては何の式も為すに及ばず。墓標には位階勲等を記さず、単に「原敬之墓」と銘記する事。葬儀は母や兄の例により、其以上の事を為すべからず。」

福聚山大慈寺

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