館林城と潮音禅師

林城の築城時期は諸説ありますが、記録で確認できる最初のものは、文明三年(1471)に古河公方足利成氏と関東管領上杉氏との合戦で出された「足利成氏書状」や「上杉顕定感状」です。これらの史料には赤井氏の居城である館林城に足利成氏方の武将高師久が立てこもり、上杉軍に攻略されたことが記されています。この合戦の後、上杉謙信によって攻略され、長尾景長が城主となりますが、天正十三年(1585)長尾氏は館林城を北条氏に明渡し、北条氏の管理となります。後に北条氏は滅亡し、徳川家康の関東移封により、その家臣である榊原康政が城主として入城します。江戸幕府が開かれ、榊原氏、松平氏と続いた後、三代将軍徳川家光の第四子徳川綱吉が二十五万石の城主となります。綱吉は五代将軍となるまでの約二〇年間、館林城主となりました。そして、寛永八年(1631)、新寺建立禁止令を出している中、徳川綱吉とその母、桂昌院から絶大な加護を受けていた潮音道海のため、城下に約9000坪もの萬徳山廣済寺を建立しました。その後、綱吉の将軍就任後はその子徳松が城主を継ぎましたが、病弱であり、天和三年(1683)に没したため、館林城は廃城となり、城の建物は取り壊され、領地も幕府直轄領となりました。この際、萬徳山廣済寺も取り壊しとなり、潮音禅師が宝林寺の住持であったことから、仏像や梵鐘等が宝林寺へ移されます。廃城となるも六代将軍徳川家宣の弟松平清武が館林を拝領した際に再築されますが、明治維新を迎え、明治七年(1874)、総郭の家臣の屋敷から出た火が城内の各建物に延焼し、そのほとんどが焼失してしまいました。焼け残った建物も取り壊されてしまったため、館林城の様相は絵図等から確認できるのみとなっています。

館林城

別名尾曳城
築城主伝・赤井照光
築城年1530年(諸説あり)
廃城年1874年
城郭構造梯郭連郭複合式平城

歴代城主

家名藩主名在任期間石高
榊原氏榊原康政天正18年(1590年) - 慶長11年(1606年)10万石
榊原康勝慶長11年(1606年) - 元和元年(1615年)10万石
榊原忠次元和元年(1615年) - 寛永20年(1643年)11万石
大給松平家松平乗寿正保元年(1644年) - 承応3年(1654年)6万石
松平乗久承応3年(1654年) - 寛文元年(1661年)5.3万石
館林徳川家徳川綱吉寛文元年(1661年) - 延宝8年(1680年)25万石
徳川徳松延宝8年(1680年) - 天和3年(1683年) 25万石
越智松平家松平清武 宝永4年(1707年) - 享保9年(1724年)5.4万石
松平武雅享保9年(1724年) - 享保13年(1728年)5.4万石
太田氏太田資晴享保13年(1728年) - 享保19年(1734年)5万石
太田資俊元文5年(1740年) - 延享3年(1746年)5万石
越智松平家松平武元延享3年(1746年) - 安永8年(1779年)6.1万石
松平武寛 安永8年(1779年) - 天明4年(1784年)6.1万石
松平斉厚天明4年(1784年) - 天保7年(1836年)6.1万石
井上氏井上正春天保7年(1836年) - 弘化2年(1845年)6万石
秋元氏秋元志朝弘化2年(1845年) - 元治元年(1864年)6万石
秋元礼朝元治元年(1864年) - 明治2年(1869年)6万石

館林御城図−江戸中期〜末期

館林御城図
引用:館林御城図(国立国会図書館デジタルコレクション)

潮音道海禅師

 宝林寺は館林領内であり、宝林寺での評判が館林城内へ伝わり、城代家老金田遠江守正勝と家老の本多甚左衛門が、「近頃江戸で評判の潮音禅師が領内にいるなら、城内にお招きして法話を聞きたい」と迎えを出しました。その頃の館林領は宰相綱吉公は館林に在城しておらず、常に江戸城内神田の館に住んでいたため、館林領の政は城代金田遠江守正勝にまかせてありました。

 そして、城内での法苑は20日あまりに及び、これもまた大好評であり、城代金田遠江守はじめ数多くの方々が帰依することとなりました。このようなことから重臣たちは「これほどの高僧、近い将来必ずいずれかに迎えられて館林を去ることとなる。なんとか領内に留めておく方法はないものか」と考え、藩主にお願いして一寺建立して住持にして永住させようということになります。そこで室賀下総守、曽我伊予守、黒田信濃守、松浦大隅守、金田遠江守等の重役が打ち揃って江戸神田の館に出向き、綱吉公に事の次第を申し上げました。

潮音道海禅師頂相
潮音道海禅師頂相

しかし、当時は寺院法度で、新寺建立を禁じていたため、旧跡を再興するか、荒れ寺の再建という名目でなければ建立できないため、龍岩寺の跡地を再興する形をとり、建立することとなりました。潮音禅師はこの新寺建立の知らせを承け、「志喜」と第する次の偈を残されています。

潮音禅師は侍者の寿山峋を早速黄檗山に遣わして、木庵禅師に報告し、新寺のご開山となっていただくよう招請されました。その書簡には、「この秋、館林宰相公から館林の城府に一坐具地を蒙り賜う。山号寺名未だ之有らず。切に望むは、山号寺名の手書の額を賜うれば千歳に栄幸あまねし。云々」とありました。突然の吉報に木庵禅師はこれを承知されるとすぐに「山は萬徳、寺は廣済」と命名され、山号と寺名の額字を揮毫し、お祝いの偈も添えて贈られました。やがて、方丈、禅堂、斎堂が完成すると潮音禅師は二代住持として晋山されました。その年の春、宝林寺で授戒会が開か、受戒者600人以上、さらに吉田大機の請いで再び授戒会を開くと、受戒者は1万人を超えたと記録されています。

萬徳山廣済寺が叢林としての諸堂伽藍が整備されるには更に9年の歳月がかかりました。仏像は主として京七条大仏師康祐法眼が刻みました。禅堂に安置された観音菩薩像は、城代家老金田遠江守の喜捨で彫られ、本尊釈迦三尊像は、家老の室賀下総守が釈迦牟尼仏を、佐野吉之丞が阿難尊者像、渡辺平左衛門が迦葉尊者像とそれぞれ制作させたもので、主君綱吉公の武運長久と家運隆盛を祈願して喜捨奉納されました。そして、家老黒田信濃守は、梵鐘を鋳造させて鐘楼を建立しました。梵鐘銘は、木庵禅師の手になるもので、「館林宰相公、檀主となって萬徳山廣済寺を開き、潮音海知蔵を延き安禅立僧、第一代の住持作す。黒田信濃守泰嶽居士菩提心を発し、云々(中略)。時は、寛文十年庚戌季春吉旦、臨済正伝三十三世、黄檗木庵瑫山僧謹書(下略)」とあります。