縁起

開山

中興開山

中興開基

 宝林寺の縁起については、再三の火災により、詳細は現在に伝えられていないところもありますが、開山が大拙祖能禅師であり、数多くの弟子を輩出し、また、中興開山潮音道海禅師の時代には、伽藍が建立されていたとする記録もあり、潮音道海禅師を慕い、数多くの僧侶がこの地に訪れたといいます。現在では、本堂と鐘楼堂を伝えるのみとなっていますが、その当時の隆盛は想像に難くないものと考えられます。

中興開基である須田覚心居士が、「師(潮音道海禅師)が慕われている中国天目山の中峰国師の法孫で、大拙祖能禅師が建立した寺が上州にありますが、大変荒れたままで檀信徒は再建を望んでいます」と潮音道海禅師に云い、この話を聞いた潮音道海禅師は、もとより中峰国師の禅風を最も慕っていたため、その再建に頗る意欲を見せました。そこで、須田覚心居士は、武州四方寺村(埼玉県熊谷市)の邑長吉田六左衛門宗信(大機居士)、その弟吉田四郎兵衛、栗原助左衛門、森田権右衛門等と諮って、潮音道海禅師を上州眞福山宝林寺に迎えることになったのでした。寛文7年(1667年)2月15日、潮音道海禅師は上州新福寺村(群馬県邑楽郡千代田町)の眞福山宝林寺に進山されました。その住山の偈に

と詠まれました。潮音道海禅師の寳林寺復興に対する意欲は燃え住民を集めて「当塗王経(観音経)」の講義をはじめました。それは、豊かな学識と薀蓄のある見事な講義で、住民にとっては長い旱魃のあとの慈雨のごとく、人々の心は揺り動かされましたから、忽ち領内の大評判になりました。

この評判が館林城に伝わり、ときの城代家老金田遠江守正勝(梅山居士)と家老の本多甚左衛門(古巌居士)が「近頃江戸で評判の潮音道海禅師が領内にいるなら、城内にお招きして法話を聞きたい」と直ぐに迎えを出しました。そして、館林城での法苑は20日あまりに及び、城代家老金田遠江守正勝をはじめ数多くの家中が帰依しました。その評判もまたたくまに関東一円にひろまり、老若男女問わず、法苑が開かれるとそれを聞くために数千人とも知れず、ときには一郡が傾いてしまうといわれるほどの人が集まりました。

和暦西暦概要関係
徳治元年1306年寳林寺草創寳林寺
天正年間1573~91年兵火により荒廃寳林寺
承応 三年1654年隠元禅師、長崎に上陸隠元禅師
寛文元年1661年徳川綱吉公、館林藩主となる
隠元禅師、京都宇治に黄檗山万福寺を開創
広済寺/隠元禅師
寛文七年1666年2月15日
中興開山潮音道海禅師寳林寺進山寳林寺
寛文九年1669年徳川綱吉公、萬徳山廣済寺を開創
木庵禅師を開山に奉じ、十月十日、潮音道海禅師二代住持として進山
広済寺
金田遠州太守、観音像を造立す。広済寺
寛文十年1670年黒田信濃守(泰嶽居士)、洪鐘を鋳し、萬徳山に鎮す広済寺/寳林寺
寛文十一年1671年室賀総州守、康祐法眼に命じて天人師像(釈迦如来像)を造立す。佐野吉之丞渡辺平左衛門、迦葉阿難二尊を造立す。広済寺/寳林寺
寛文十二年1672年康祐に命じ、祖翁の寿像(木庵性瑫禅師)を造立す。(現:普賢寺安置)広済寺/普賢寺
延宝元年1673年智堂徒、方丈を建つ寳林寺
延宝2年1674年曽我予州太守、法鼓造る広済寺
方丈竣工広済寺
観月、人を化して緊那羅王を造立す。広済寺/寳林寺
延宝5年1677年大綱知客、浦山宗融、鈴木徳心、境屋一玄、韋駄天像、伽藍神像(華光菩薩)、初祖像(達磨大師)を造立す。広済寺/寳林寺
掃雲院夫人、禅悦堂を建つ広済寺
吉田、高柳二氏、浴室を構営す広済寺
延宝6年1678年慈照知客、法華経を血書し、募化して弥勒像(布袋尊)を造立す。広済寺/寳林寺
延宝七年1679年潮音道海禅師「旧事本紀大成経」正部四十巻刊行潮音禅師
天和三年1683年五月二八日徳松君没し、館林城取り壊し令下る
萬徳山廣済寺取り壊し
什物・用材等寳林寺へ
広済寺/寳林寺
〜元禄三年〜1690年伽藍竣工寳林寺
元禄八年1695年潮音道海禅師、万亀山臨川寺にて示寂潮音禅師
元禄十年1697年京七条中仏所二十六代仏師康祐三男康倫 釈迦如来像造立寳林寺
〜慶応二年〜1866年再三たる大火により焼失寳林寺
明治三十四年1901年本堂再建寳林寺
平成十八年2006年本堂・山門再建寳林寺
平成二十四年2012年庫裡再建寳林寺
平成二十八年2016年鐘楼堂再建寳林寺