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小倉山観音院(廃寺)

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ふと江戸後期の黄檗末寺帳をみていると、群馬県内にまだ把握していなかったお寺があることが判明。そこにのっているのは、「観音院」という寺名と地名の「小倉」のみ。ヒントはこれだけです。昔は番地までふられておらず、ここから探さないといけません。ですが、さすがはGoogle Map・・・。一発で見つけてしまいました。見つけてしまえばあとは、現地へ裏取りに。早速足を運んでみました。

しかし、山の中にピンが刺されている。入り口はどちらなのか。とにかく探検です。すると、行き止まりの一歩手間に石塔が並べられていました。1つは和尚塔のようにも見えます。ですが、文字は風化等により読めませんでしたが、この近くになにかしらのお寺や祠など信仰の対象があったであろうことは伺えます。

目次

詳細

創建不詳
開山潮音道海禅師?
開基不詳
本尊聖観世音菩薩?

信仰の跡

スクラップ置き場があり、行き止まりかと思いつつも、更に奥へ奥へと進んでいきます。そうすると、道がひらけます・・・!なにやらまたしても石塔が見えてきました。ワクワクしてきました。さらに足を進めます。

小倉山観音院
小倉山観音院
小倉山観音院

庚申塔があります。これがあると信仰の対象となったなにかしらのものがその場にあったといってよいぐらい、目印となるものです。更に進むと小高い丘?山?がみえ、参道らしき階段が・・・!

小高い山、階段。そして、お堂。

なかなかの段数があります。そして、こうまできれいに階段がいまも残っているというのは、驚きです。

この階段を登るとお堂が残っていました。お寺の名前の通り、おそらく観音様が祀られていたものと思われますが、中は全くといっていいほど、なにも残されてはいませんでした。しかし、きちんと整理されており、地元の方などが管理してくださっているように見えます。有り難い。

登りきったお堂のあるところからの眺望はなかなかの絶景。かなりの高さがあります。推測するにおそらくこれは奥院なのでは、とも思われます。下にはいまは廃墟となっていましたが、集合住宅もあり、平地の部分がありました。そのあたりに本堂があり、この階段を登った上のお堂が奥院なのかなとも思えます。しかし、推測の域です。このお堂の裏は岩山となっており、大きな岩を背負っています。その中には石の小さな祠が祀られていました。ここに間違いなく信仰が根付いていたことは確認できましたが、いまのところ黄檗の寺であったという確証は末寺帳以外に見つかりません。一旦参道の階段をおりてみることにしました。

お坊さんのお墓。和尚塔。

参道の少し離れた山の脇に、和尚塔を発見!これは期待が高まります。2つの和尚塔があり、それぞれ時代はいずれも江戸中期〜後期。そして、刻まれた名をじっくりと読み解くと・・・。

梅子衍熟 長老位
當寺第二代 梅仙淨仁 大和尚

梅子衍熟
梅子衍熟
當寺第二代梅仙淨仁大和尚
當寺第二代梅仙淨仁大和尚

と書かれています。これは間違いなくここに寺があり、そこの住職のお墓、歴代墓でしょう。場所は移動されていそうですが、この山一帯が「小倉山観音院」であったであろうと思われます。そして、このお坊さんの名前を調べます。各宗派で異なるとは思いますが、「宗鑑録」というお坊さんとして本山に登録されている方々が一覧になっている書物があります。その宗鑑録でこの方々を調べます。一通り調べ終え、お寺に戻り次第すぐに調べましょう。

宗鑑録

自宅に戻って、すぐに調査を開始。名前と三文字目の「衍」と「淨」の字がヒントになります。この手がかりをもとに、宗鑑録をひたすら探していきます。いまのように情報網が正確ではなかったでしょうから、宗鑑録に登載されていない可能性も十分にありえます。そして、この時代、この地域は中本山と呼ばれた黒瀧山不動寺がありましたので、そちらに登録され、本山萬福寺に登録されていないケースも考えられます。この宗鑑録は本山萬福寺において登録されたお坊さんらが登載されています。

「梅子衍熟」

何度も見返しましたが、この方を見つけることはできませんでした。ですが、なんと宝林寺の歴代住職に同名の方がいらっしゃいました!!歴代住職はこちらに記しており、第30代の住職をされた方です。なんとも感慨深い発見です。

そして、もう一方を探します。

「梅仙淨仁」

また探します。すると・・・!見つけました!きちんと登載されていました。これで間違いなく、この地に当時はお寺が有り、黄檗の和尚が布教していたことを証明することができます。

正徳3年12月11日 嗣壽峰福

と書かれています。この日付はいわゆるお坊さんとなり、本山に登録された日です。正徳年間は1711年から1716年までですので、3年ということは1713年でしょうか。黄檗が日本に入ってきて、本山萬福寺が開創されたのが1661年。そこから約40年。おそらく黄檗の勢いが最も盛んな時期ではないでしょうか。そして、その方の師匠をたどります。そうすると大まな系統とつながりが見えてきます。

梅仙仁 → 壽峰福 → 潮音海

間違いなく宝林寺中興開山の潮音道海禅師の系統であることも確認できました。

なんとも感慨深い、有意義な探訪でありました。こうして廃寺となった現在でも、管理されてくださっている方がいらっしゃり本当に有り難い限りです。

写真

アクセス

住所

〒376-0041
群馬県桐生市小倉

小倉山観音院参道

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