黄檗宗

黄檗宗の教え「唯心」

黄檗宗では、人は生まれつき悟りを持っているとされる「正法眼蔵」という考えがあります。その真理にたどり着くためには、自分自身の心に向き合うことであるというのが黄檗宗の教えです。黄檗宗を含む禅宗は、自分の心の中に存在している阿弥陀仏に気づくことが根本的な目的で、そのために必要なのが「坐禅」だとされています。
また黄檗宗では「この世の中に存在するのは心だけで、目で見えるすべての物事や起こる現象は、心の働きがもたらしたもの」という「唯心」の教えを大切にしています。そのため、私たちの心の中にこそ阿弥陀様がおられ、極楽浄土を見出せるとされています。
隠元禅師の御遺誡(後世に残された訓戒)の中にも、「己躬下の事を究明するを務めとせよ」とあります。これは要約すると、自己の究明に務め、昼夜たゆまぬ修行をしなさいという意味です。自己の究明、つまり人として生まれてきて自分はいったいどう生きるのかということです。人の為ではなく、まず自身の解決が肝要であると説いたのです。

引用:黄檗宗の教え「唯心」

梵唄(ぼんばい)

黄檗宗では、法式(儀式作法など)やお経もすべて中国で行われていたものを忠実に継承しています。特にお経は独特で、唐音とよばれる中国語を基本とする読みをします。たとえば一般的によく詠まれる般若心経でいうと「まかはんにゃはらみたしんぎょう・・・」と唱えるところが「ポゼポロミトシンキン・・・」という具合になります。さらに黄檗のお経の中には「梵唄(ぼんばい)」と呼ばれるものがあります。これは字にも表わされているとおり、歌のようなお経です。声明などとはまた違い、4拍子を基本とするリズムを刻みながら節の付いたお経を詠んでいくとても音楽的なお経です。法要ではこれに、いろいろな鐘や太鼓などの鳴物を合わせて音楽を演奏するかのように読経が行われます。

引用:梵唄(ぼんばい)

宗祖 隠元禅師

隠元隆琦禅師は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容(ひいんつうよう)禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となられた高僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持でした。日本からの度重なる招請に応じて、承応3年(1654)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝。のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の崇敬を得て、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、寛文元年(1661)に禅寺を創建。古黄檗(中国福清県)に模し、黄檗山萬福寺と名付けて晋山されることになりました。禅師の道風は大いに隆盛を極め、道俗を超えて多くの帰依者を得られました。禅師は「弘戒法儀」を著し、「黄檗清規」を刊行して叢林の規則を一変されるなど、停滞していた日本の禅宗の隆興に偉大な功績を残されたことにより日本禅宗中興の祖師といえるでしょう。爾来、禅師のかかげられた臨済正宗の大法は、永々脈々と受け継がれ今日に至っています。そして行と徳を積まれた禅師は、ご在世中、物心両面にわたり、日本文化の発展に貢献され、時の皇室より国師号または大師号を宣下されています。また禅師の将来された文物は、美術、医術、建築、音楽、史学、文学、印刷、煎茶、普茶料理等広汎にわたり、宗教界だけにとどまらず、広く江戸時代の文化全般に影響を及ぼしました。この他、隠元豆(いんげんまめ)・西瓜(すいか)・蓮根(れんこん)・孟宗竹(たけのこ)・木魚なども禅師の請来によるものです。

引用:宗祖隠元禅師