伝来
隠元禅師の渡来は、中国禅の伝播だけに留まらず、日本に多くの大陸文化を伝えました。
料理、印刷、書、絵画、詩文、彫刻、篆刻、衣装、書籍、建築、医術、煎茶道等々の技術で、枚挙にいとまがありません。
木魚
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今ではどこのお寺にもある円い木魚ですが、これは実は黄檗宗が日本にもたらしたものです。黄檗宗が最初に使い始めたものです。漫画「一休さん」と言われて頭に思い浮かぶのは、一休さんが頓智をきかせるときの音、「ポクポクチーン!」ではないでしょうか。しかし、この「ポクポク」の木魚の音は、江戸時代に黄檗宗によって伝えられたものです。そして、一休さんの活躍した時代は、室町時代。つまり、その当時には木魚は存在せず、漫画特有のフィクションなのです。
魚梆 / 開板(かいぱん)
この魚梆 / 開板(かいぱん)が木魚の原型です。右の写真は黄檗山萬福寺にあるものであり、日常行事の時間を知らせるために使用します。口にくわえている玉は心の煩悩である、「貪瞋痴(とんじんち)」を吐き出させるという意味があります。
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普茶料理
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普茶(ふちゃ)とは、「すべての人に茶をふるまう」という意味です。中国はテーブルといすの生活文化であり、4人分にもられた大皿をどんな身分にも関わらず、みなで分け合います。普茶料理は日本の精進料理とは異なり、見た目も鮮やか。揚げ物もあり、高タンパク、低カロリーで栄養満点です。また、禅寺で有名な「ごま豆腐」は普茶料理の「麻腐(まふ)」というものが元祖です。
寒天
寒天は、17世紀ごろに京都伏見の旅館でところてんを寒い屋外に放置してしまったことから偶然生まれたものだそうです。そこから、隠元禅師が「寒空」「冬の空」を意味する漢語「寒天」に「寒晒心太(かんざらしところてん)」の意味を込めて名付けたそうです。
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原稿用紙
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黄檗僧の鉄眼禅師は、鉄眼版一切経の版木を開刻するに当たり、縦20字、横10行と定め、これを1ページと定めました。当時は、マス目はなく、縦の罫線のみでした。縦20字×横20行の現在の原稿用紙はこの縦20字、横10行の和本の見開きの状態です。
この版木が現在の400字詰め原稿用紙の原型となっています。
明朝体
いまとなってはゴシップ体と並び、代表的なフォントとなった明朝体。江戸時代、黄檗僧の鉄眼禅師による鉄眼版大蔵経や黄檗諸師語録の印刷刊行により、日本全土に明朝体が普及しました。鉄眼道光は全国行脚をし施材を集め、京都の木屋町二条の地に印経房(のちの貝葉書院)を開設し、中国明の万暦版を基に覆刻開版し、完成させました。
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いんげん豆(隠元豆)
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誰もが知っているいんげん豆ですが、中国福建省から隠元和尚らが日本にもたらしたことから、この名がついています。普及するには相当量が必要であると考えられますが、当時の日本は飢饉が続き、食糧事情が悪いことが伝えられており、それに備えて多くの種類の穀物、野菜類の種を帯来されたと伝えられています。
煎茶
隠元禅師らとともに煎茶も日本にもたらされました。その後、江戸時代中期の黄檗僧 月海元昭が禅の精神を実践するため「売茶翁」となって、京都市中で煎茶の茶売りをしていたことで有名になりました。黄檗山萬福寺には「売茶翁」を祀る売茶堂があり、その横には全日本煎茶道連盟の本部が構えられています。
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