梵鐘
宝林寺の梵鐘|千代田町指定文化財(旧国指定重要美術品)
この鐘は、国の重要美術品とされた名鐘で、館林城主徳川綱吉が、当時、宝林寺に来住の潮音道海禅師を住持に迎えて創建した館林の廣済寺に、寛文10年(1670)家老の黒田信濃守が寄進したもので、潮音の師木庵性瑫によって銘が刻まれています。
徳川綱吉が5代将軍となった後の天和3年(1683)、館林城は廃城、廣済寺も取り壊しとなり、本尊、什宝等が宝林寺に移されました。その後、江戸深川に廣済寺が再建され、前記什宝等の引き渡し要求があり、交渉は難航しましたが、天保14年(1843)小幡龍門寺、三光和尚の斡旋により解決し、梵鐘等すべて宝林寺に永代伝えることになりました。また、重要美術品の指定であったため、戦時供出にもあわず、今日に伝えられています。当時各地にある梵鐘は、国宝、重要美術品に指定されているもののほか、慶長年間以前(1615年以前)の文化的価値のある、わずかな鐘を除いて供出されてしまいました。戦前には日本全国に約5万口あったとされているが、現在では江戸時代以前の鐘は3,000口ほどしか残っていないとされ、大変貴重な鐘であります。
梵鐘銘文
萬徳山鐘銘並引館林宰相公為檀主開萬徳山広済禅寺延潮音海知蔵安禅立僧作第一代之住持黒田信濃守泰岳居士発菩提心捐金鋳蒲牢以鎮山門庶晨昏叩撃洪音郎徹普被幽冥並及山川神祇鬼趣獲聞斬音頓脱辛楚之難而超浄域自古以来凡有寺宇莫不懸鐘置盤極施其大利也由是来請厥銘山僧喜其素為勝事及援筆而書日
大地為炉治須弥作炭塊鋳出妙洪音高懸碧落背撃叩声無虧円聞苦有隊頓脱業撃塗超昇極楽円厥巧並海深其徳与天配永鎮比山門萬石而長在吾説斬偈言流芳百億載玉葉及金枝昌昌無窮代 旹在
- 寛文十年庚戌季春吉旦
- 臨済正伝第三十三世 黄檗木庵瑫山僧謹書
- 鋳工 宇田川藤四郎藤原次重
館林宰相公檀主と為り萬徳山広済禅寺を開く 潮音海知蔵安禅立僧を延き 第一代の住持と作す 黒田信濃守泰岳居士 菩提心を発し 金を捐ねて蒲牢を鋳せしめ 以って山門に鎮む 庶晨昏叩き撃てば洪音 郎徹普く幽冥を被ひ並びに山川神祇鬼趣に及ぶ 斬の音を聞き獲て頓に 辛楚の難を脱し浄域を超ゆ 古より以来 凡そ寺宇有れば鐘を懸け 磬を置き 盤極施其の大利を施せざる莫し 是に由り来たりて厥銘を請う 山僧其の素より 為勝事たるを喜び筆を援り書して日く
大地炉治と為り 須弥炭塊を作す 妙なる洪音を鋳出し 高く碧落の背に懸け 撃ち叩く 声虧ける無く 円にして苦しみ隊る有を聞けば 頓に業撃の塗を脱し 超えて極楽の内に昇る 厥の巧は海と並び深く 其の徳は天と並配び 永く比の山門に鎮め 萬古にして長に在り 吾斬の偈を説けば 芳は百億載に流れ 玉葉及び金枝昌昌として 窮まる代無し 旹在り
基音周波数:163.5Hz
対数減衰率:0.00093
2012年の調査で上記結果が得られ、西(阿弥陀如来の極楽浄土の方向)を意味する平調にわずか4セント低い音でした。また、奈良時代から江戸時代までの鐘の対数減衰率が平均0.00129と言われている中、この鐘の対数減衰率は0.00093となり、かなり小さく余韻が長い梵鐘ということが測定結果から得られました。